1. 三越本店(日本橋室町)

中央通り,三越前駅傍にある。三越:日本初の百貨店。延宝元年(1673)に創業した呉服店・越後屋から発展。三越は三井家と越後屋に由来。現在は(株)三越伊勢丹ホールディングスの傘下にある。玄関正面入口にライオン像(ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像がモデル),1階中央ホールにパイプオルガン(米国マイテー・ウェルリッツァー社製,日本で唯一現存する演奏可能な昭和初期製造のシアターオルガン)と吉祥瑞運(天女)像(1960年,佐藤玄々が10年かけて製作,三越の真髄:まごころの象徴)がある。又1階と地下1階に降りる大理石壁に浮き出たアンモナイト化石が,更に三越前駅の地下コンコース支柱壁にも数々のアンモナイト化石が浮き出ている。

2. 三圍神社(日本橋室町)

(みめぐり)。中央通り,三越前駅,三越本店屋上にある。祭神:宇迦之御魂命。創建:文和年間(1352〜1356)の頃,墨田川牛島の畔(墨田区向島三圍神社本社),僧源慶。活動大黒天:三圍神社本社境内にある大黒神を屋上に奉斎。共に商売繁盛と幸運をもたらす神として信仰されいる。漱石の越後屋碑がある。

3. アンモナイト(日本橋室町)

三越日本橋本店本館1階中央ホールの2階へとつながる階段の壁にアンモナイト等の化石の姿が見られる。又,営団銀座線三越前の地下通路の大理石の柱群にも見られる。 (説明から)化石について:この周辺の壁や階段には,美しいイタリア産の石材が使われていますが,その中に,大小さまざまの化石がたくさん入っています。種類:アンモナイト(巻貝のように巻いて中に仕切りのあるもの。頭足類),べレムナイト(白い棒状か,楕円状のもの。頭足類),二枚貝,腕足類。時代:今から1億数千万年前の海に生息していました。陸には恐竜が歩き回っていました。成因:いまは絶滅したこれらの生物の遺骸と石灰質の泥が,比較的沖合いの海底にたまって,このような石材(石灰岩)ができました。アンモナイト:古生代(6億年〜2億年前)の中ごろに出現し,中生代(2億年〜6500万年前)の終わりに絶滅した軟体動物,頭足類。中生代のジュラ紀,白亜紀に大いに繁栄しました。アンモンガイ,菊石とも呼ばれます。成長するにつれて,外側に部屋を増やしていき,直径数センチのものから,大きいものでは2.5メートルになるものも知られています。進化の速度が速く,広く分布するため,地層の時代を決めたり,対比(同時性を確かめること)したのするのに,たいへん重要な化石です。

4. 日本橋魚河岸跡(日本橋室町)

中央通り,三越前駅出口にある。江戸時代初期,日本橋川沿いで佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まり,その後幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げし,取引される魚河岸に発展した。大正12年(1923)の関東大震災後,築地の東京都中央卸売市場に移る。
(説明板)日本橋魚河岸跡:日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町、小田原町、安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。中でも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
乙姫・乙姫の広場・記念碑:乙姫(おとひめ)は日本のおとぎ話「浦島太郎」に登場する竜宮城の主(海神、竜神)の娘(妹姫)のこと。当時、海の魚がことごとく日本橋に集まっていたことから「日本橋 龍宮城の港なり」と称えられたと言う。そこで、昭和29年(1954)、記念碑が旧日本橋魚市場関係者によって建立された。「東京に 江戸のまことの しぐれかな」。

5. 日本橋(日本橋室町)

中央通り,三越前駅,三越本店近くにある。
(説明板から)日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。 幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし,重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には東京市により,石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので,青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を,獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は,昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に,同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ,同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け,大切に保管しています。平成12年3月中央区教育委員会。
日本国道路元標(里程標):千葉市37km宇都宮市107km,水戸市118km,新潟市344km,仙台市350km,青森市736km,札幌市1,156km,横浜市29km,甲府市131km,名古屋市370km,京都市503km,大阪市550km,下関市1,076km,鹿児島市1,469km。

6. 家内喜稲荷神社(日本橋室町)

(やなぎ)。中央通り室町4交差点,西南西約30m,通り沿いにある。

7. 福徳神社(日本橋室町)

中央通り沿い,日本橋室町野村ビル(裏側)の敷地内にあり、また平成26年10月に向いに新社殿が建設された。祭神:倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉、天穂日命〈あめのほひのみこと〉、大己貴命〈おおむなちのみこと〉、少名彦命〈すくなひこなのみこと〉、事代主命〈ことしろぬしのみこと〉、三穂津媛命〈みほつひめのみこと〉、太田道灌、弁財天、徳川家康(東照宮)。創建:清和天皇の御世(859〜875)以前,福徳村。
(説明板)当社の創祀された時は明らかではありませんが、当社に伝わる略記によると、貞観年間(清和天皇・859〜876年)には既に鎮座していたようです。武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号としました。その鎮座する社地は広く、社殿も宏壮で、社の四隣は森林、あるいは田畑に囲まれ、農家が散在する片田舎でした。土地の人は神社の森を稲荷の森、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。後の明暦3年酉年(1659)正月8日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。その碑名の移しは次の通りです。
表 宮戸川邊り宇賀の池上に 立る一里塚より此福徳村 稲荷森塚迄一理
裏 貞観元年卯年 三つき吉祥日
そもそも当社は、元来武将の信仰があつく、源義家朝臣(みなもとのよしいえあそん・1039〜1106年)が深く崇敬されていたことが記されていた、と伝わっています。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっています。天正18年(1590)8月1日に入府した徳川家康公は、同じ8月に初めて参詣され、その後参詣は数度に及びました。
別名"芽吹神社御由緒"
さらに、二代将軍秀忠公は慶長19年(1614)正月8日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と賞賛されました。この時、当社古例の椚の皮付きの鳥居に、春の若芽の萌え出でたのをご覧になり、当社の別名を「芽吹神社」とされました。元和5年(1619)2月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに「社地縄張を330坪」と定められました。
祭神:倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉、天穂日命〈あめのほひのみこと〉、大己貴命〈おおむなちのみこと〉、少名彦命〈すくなひこなのみこと〉、事代主命〈ことしろぬしのみこと〉、三穂津媛命〈みほつひめのみこと〉、太田道灌、
弁財天、徳川家康。

2010年10月


2012年5月


2014年10月

8. 本町3交差点(日本橋本町)

昭和通りと江戸通りが交差する所、昭和通りの上を首都高速1号上野線が走る。周辺にハナマサ、すき家、日本料理よつ谷、大江戸、うなぎ割烹大江戸、ホテルかずさや、新日本橋駅前郵便局等がある。

9. 日本料理よつ谷(日本橋本町)

 新日本橋駅8出口直ぐの東京建物第三室町ビルB1F(日本橋本町4-8-14)にある。

10. うなぎ割烹大江戸(日本橋本町)

昭和通り本町3交差点の南にある(日本橋本町4-7-10)。創業1800年の老舗。

11. 福田稲荷神社(日本橋本町)

神田駅南西約300m,紺屋町交差点南西にある。祭神:伏見稲荷大明神(新道)。創建:和銅4年(711),福田村の守護神。

12. 薬租神社(日本橋本町)

 昭和通りと江戸通りが交わる交差点から南南西約150m、昭和薬貿ビル4階にある。祭神:大国主命、少彦名命。祭日は10月17日だが、土・日曜に当たる時は前後にずらして行わる。2013年10月18日の祭日に撮影。

13. 稲荷神社(日本橋本町3)

中央通り室町3交差点東約250m,昭和通り沿い, ビルの敷地内にある。

14. 両社稲荷大明神(日本橋本町)

神田駅南西約250m,中央通り今川橋交差点南東にある。

15. ブロンズ像(日本橋本町)

日本橋本町3丁目,江戸通り,ニューカワイビル(ファミリーマートの横)1階の玄関にある。 ブロンズ像,Mother and Child(母と子),FERNANDO BOTERO(フェルナンドボテロ,1988- ), アートスペースユーメリア(貸画廊)。

16. 寶田恵比壽神社(日本橋本町)

本町2交差点(首都高速本町出入口)北約250mにある。祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと),少彦名命(すくなひこのみこと),大国主命(おおくにぬしのみこと),大己貴命(おおなむちのみこと),素盞鳴命(すさのおのみこと)。創建:慶長11年,江戸城外宝田村,宝田神社。商売繁盛,家族繁栄。べったら市(年またあらたまる)は商家の年末行事。日本橋七福神:恵比寿神。

17. 馬込勘解由の碑(日本橋本町)

(まごめかげゆ)。日本橋本町2丁目,昭和通り,小津本館ビルの前に,宝田恵比寿神社への入口碑と並んである。(べったら市の由来)。馬込勘解由は江戸時代前期の伝馬(てんま)役。徳川家康の関東入部に従って江戸に入り,伝馬業についた。慶長11年(1606)以後は日本橋大伝馬町に住み,伝馬と名主の役を世襲。代々勘解由を名のり,幕末まで続いた。
(説明板から) 徳川家康による江戸城築城のおり,寳田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寳田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。この大業を成し遂げた功により,勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し,徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ,寳田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ,以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ,売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら べったら べったら 買わないで通ると着物にくっ付くよ」と戯れたことからべったら市の名がついた。徳川家康公江戸出府四〇一年を壽ぎ,ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。

18. 於竹大日如来(日本橋本町)

日本橋本町3丁目,昭和通り,小津ビルから東に30m程入ったSTビルの前にある。 (説明板から) 於竹大日如来は,寛永十七年(十八才の時)山形県庄内よりでて,当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなる。その行いは何事にも誠実親切で一粒の米,一きれの野菜にも決して粗末にせず貧困者に施した。そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ,持仏堂を造り,その後念仏三昧の道に入る。これが江戸市中に拡がり,於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う。於竹さんの詠んだ歌に, 手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏 口と心のひまにまかせて 延宝八年五月この世を去る  行年五十八 五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に ありがたや光と共に行く末は 花のうてなに於竹大日 於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった。

19. 常磐稲荷神社(日本橋本町)

首都高速・江戸橋IC東,小舟町信号北西約70m,本一町会事務所の傍にある。祭神:倉稲魂命,罔象女命(みずはのめのみこと)。創建:室町中期,長禄元年(1457),太田道灌が江戸城築城時,京都伏見稲荷大神を勧請。宝暦の頃まで「名に高き芦のなぎさの葭原に鎮めまします常盤の神」の歌が記された太田道灌の額があったと言う。境内社:産千代稲荷神社(倉稲魂命,三穂津比売命,(みほつひめのみこと))
由緒:(説明板)当社は室町中期長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を築城の際,京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき,常盤稲荷と名付け,同城の守護神として勧請された。後に徳川家康公開府により,江戸城郭拡張工事が行われ,現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが,当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに社地が移された。宝暦(1751-)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
名に高き葦のなぎさの葦原に 鎮めまします常盤の神
の歌が記されていたと伝えられる。その後更に,長浜町の日本橋魚市場内に移り,市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。当時は,大市場交易神と称され盛大な水神祭が行われ,神田祭・三天王祭と共に,大江戸の名物行事でもあった。この水神大神は,明治34年に神田神社境内に遷され水神社と改称し,築地市場の守護神として祀られ今日に至っている。合祀されている末社産千代稲荷神社のご祭神は倉稲魂命,三穂津比売命ニ柱の大神が祀られている。古来より安産の守護神として厚い信仰があり 参詣者が極めて多かったと伝えられる。そのお礼参りに桜の若木が奉納される慣わしがあり,当時は魚市場桜花爛漫の景観であったといわれている。

20. 一石橋(日本橋本石町)

 外堀通り呉服橋交差点の北約300m、貨幣博物館の南にある。(いちこくばし)。日本橋川に架かる、中央区八重洲1と中央区日本橋本石町1を結ぶ橋。外堀通り(東京都道405号外濠環状線)を通す。橋長(下流側):50.205m、(上流側)50.494m、幅員:16.5m。

・一石橋の親柱:(説明文)所在地 八重洲1町目11番先 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。木橋としては最後となった明治6年(1873)の一石橋は長さ14間、幅3間の橋でした。大正11年(1922)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱4基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成9年には大正11年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。平成14年に中央区民文化財に登録されました。

・一石橋迷子しらせ石標:(説明文)所在地 中央区八重洲1-11。指定 大正13年2月5日府仮指定。江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時、迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで、安政4年(1857)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはる。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下水人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。しかし、震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。石標寸法など、省略。

21. 日本銀行(日本橋本石町)

外堀通り新常磐橋交差点南東約200mにある(中央区日本橋本石町2-1-1)。日本銀行法に基づく財務省所管の認可法人であり、日本国の中央銀行である。資本金は1億円で、政府が55 %、政府外が45%(ジャスダックに上場)となっている。ただし、政府以外の出資者は経営に関与することができない。

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